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麟祥院



臨済宗 妙心寺派 天澤山 麟祥院(りんしょういん)


当山は寛永元年(1624)春日局の願により三代将軍家光公の台命で、当地に境内地一万坪寺領三百石の御朱印状を拝領し徳川秀忠の御明御殿を賜り、殿堂を造立し、報恩山天澤寺と号しておりました。

はじめ、局の甥にあたる神龍和尚が住職しましたが、病気のため退院し、寛永七年野州宇都宮の興禅寺の渭川和尚の高徳であるのを局が聞き、当山の住職として拝請され開山となりました。その節、春日局の菩提所として、寛永十一年(1634)家光公より武州豊島郡柏木村(現新宿北新宿)の内に寺領百石を香華料として寄進され、後に豊島郡駒込村(現文京区本駒込)の内に弐百石ご寄進され合わせて三百石の寺領となりました。局は麟祥院殿仁淵了義尼大姉の法号を受けました。後に将軍家光公は春日局の法号をもって寺号とするように命じた為「天澤山麟祥院」と改号しました。

開山:渭川周劉禅師


渭川周劉禅師は、永禄八年野州小山に生まれ、宇都宮興禅寺の湛堂祥激和尚について得度、物外招播和尚(播揚大教禅師)について修行致しました。

そして、永年諸国を修行し、野州大柿村の太白山龍興寺に住職されました。

後に、師の跡をついで興禅寺に移りましたが、局の特請により当院に住職致しました。寛永十九年(1642)二月二十六日世寿七十八歳にして遷化。

寛永二十一年(1644)本寂定光禅師の勅号を賜りました。


開基:春日局


幼名は福。父は明智光秀の重臣齋藤内蔵助利三、母は刑部少輔智道明の女で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけましたが、慶長九年(1604)三代将軍家光公の乳母として召出され3千石を賜りました。

家光公が将軍職に就くために献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽力致しました。

寛永五年家光公二十五歳の折、疱瘡にかかられ、諸医の手当にも験がなかった時、局は齊戒沐浴して東照宮大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復しました。そのため局は身の終わるまで針灸薬餌を一切用いませんでした。

寛永六年京都へ上り御所に参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を賜りました。同九年再び台に依り上洛し、明正天皇より従二位を賜りました。寛永二十年(1643)九月十四日六十五歳で卒し、当院墓地に永眠しております。

下の画像は、局が朝廷より従二位緋袴を賜った折の寿像で、局の還暦を祝して家光公が特に狩野探幽に命じて描かせたものです。


※上記「春日局像」狩野探幽筆・江戸時代

春日局墓石について


 春日局の墓石の四方及び台石には、夫々穴が穿ってあります。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい」と言う春日局の遺言に衆議して建立したものです。

春日局の強運と賢徳に、又墓石に穴が通っていることから、「肖る」とか「願いが通る」と江戸時代より港間に伝えられてひそかに参詣する人が多くありました。

当院は時域の四囲を「カラタチ」の生垣を廻らしていたことから、「からたち寺」と言われて来ましたが、明治二十年頃より施工された度々の道路拡張などにより、カラタチの生垣はなくなりました。

 


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